NHK「長すぎた入院。精神医療・知られざる実態」を見て(その2)

「人が人として生きる。」
 
昨年、シアトルのEVERGREEN HOSPITALでの光景は、その言葉の意味を突きつけられるものでした。
 
ドラッグ(たぶんヘロイン)でフラフラになりながら、耳鍼を受けにきた40歳ぐらいの女性。
椅子に座っていてもグニャグニャで、まともに座っていられない。
何度も椅子から滑り落ちてしまう。
椅子って言ってもリクライニングチェアなのに・・・どんだけグニャグニャやねん、という状態でした。
 
そんな彼女を見ながら、なんのことは無いという表情で背中を支える隣の席の人もまたドラッグで耳鍼を受けに来ている男性。
 
鍼灸師のYOJIさんは、どんな人が来ても淡々と耳に鍼を打つ。
 
あんなにグニャグニャだと日本では即入院になるのでは?と思うけど、シアトルではごく自然に
「オッケー!明日もまたおいで」
とにっこり笑って見送っているのが、不思議というか、なんという文化の違いなんだろうと思いました。
 
そこには「人として受け入れる」「相手を否定しない」という基礎的なものがあり、
その基礎の上に、「人権」という、ゆるぎない概念があるのだなと感じました。
精神科病棟の長期入院問題は、日本人の気質に大きな問題がある
と思います。
精神病患者との付き合い方を知らない日本人。
人権に疎い日本人。
その人の生まれ、してきたこと、置かれている状況といったものをいちいち引っ張り出し、
社会的にどうか?とか、倫理的にどうか?などという
規範に当てはめたがる日本人。
そしてもっと深刻なのが
この人権侵害が医療という名の下で行われている、ということ。
しかし、問題は医療の側だけにあるのではなく、
肉体的精神的不具合は全て医者(と医療)に任せる・押し付ける
という患者とその家族側の心理構造が
さらに事態を良く無い方向に向かわせている気がしてなりません。
なんて考えていると
「もう、どうしたらいいんだかさっぱりわからんわ!」
になっちゃいます。
すぐに解決策が見つかるはずはありませんが
私にできることは、「知る」ということと、自分が知ったことを「知らせる」ということかな、と思っています。
人が人として生きるとはどういうことなのか?
まずは自分から知りにいくという姿勢を、人に対しても、社会に対しても持ち続けようと思います。